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コブ郡 (ジョージア州) : ウィキペディア日本語版
コブ郡 (ジョージア州)[こぶぐん]

コブ郡()は、アメリカ合衆国ジョージア州の北西部に位置するである。2010年国勢調査での人口は688,078人であり、2000年の607,751人から13.2%増加した〔Quickfacts.census.gov - Cobb County - accessed 2011-12-06.〕。人口は着実に成長を続けてきた。郡庁所在地は郡の中央にあるマリエッタ市(人口56,579人〔Quickfacts.census.gov - Marietta, Georgia - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。郡名は、19世紀初期にジョージア州選出アメリカ合衆国下院議員と同上院議員を務めたトマス・ウィリス・コブに因んで名付けられた。郡庁所在地のマリエッタはコブの妻に因む命名と考えられている。
コブ郡は周辺の郡とと共に1832年12月3日にジョージア州議会によって設立された。その領域はチャタフーチー川の北西にあるチェロキーインディアンの広大な領土だったものであり、連邦政府のインディアン移住法が成立したことで、ジョージア州がチェロキー族から押収し、抽選で開拓者に配分した〔Cobb County, Georgia 〕。
コブ郡はアトランタ大都市圏(正確にはアトランタ・サンディスプリングス・マリエッタ大都市統計地域)に属している。アトランタ市境の北西に直接接しており、州間高速道路285号線、同75号線、同20号線および同575号線で繋がっている。20世紀最後の30年間では国内でも成長速度の高い郡だった。過去50年間で未開発の田園部が大都市郊外地域に変身した。
エッジシティであるカンバーランド・ディストリクトは、2,400万平方フィート (2,200,000 m2) を越えるオフィススペースがある。

アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、ジョージア州では最高、国内でも12位の教育が進んだ郡である。国内で収入の高い100郡の中にも入っている〔bizjournals: How 100 counties ranked in wealth 〕。
== 歴史 ==

コブ郡は、涙の道が行われた後の1831年、チェロキー族インディアンの領土に作られた9郡の1つである。州内81番目の郡であり、郡名はアメリカ合衆国上院議員、州議会議員、上級裁判所判事を務めたトマス・ウィリス・コブに因んで名付けられた。郡庁所在地のマリエッタもコブの妻メアリーに因む命名と考えられている。
南北戦争前の時代、マリエッタはサバンナ市やチャールストン市から黄熱病を逃れる住人の夏のリゾート地だった。南北戦争中、1864年6月27日に郡内で起きたケネソーマウンテンの戦いは、ウィリアム・シャーマン将軍によるジョージア侵攻中で唯一南軍が勝利した戦いだった。それでも北軍は南軍を追い出していった。
それ以前の5月25日にはニューホープ教会の戦い、5月27日にはピケットミルの戦い、5月28日にはダラスの戦いがあった。10月28日のアラトゥーナ峠の戦いは、シャーマンが海への進軍を始めたときに起きた。北軍は家屋の大半を焼き払い、穀物は押収するか焼いた。
地域の綿花農業は1890年代から1920年代が最盛期だった。世界恐慌のときに綿花の価格が下がり、郡全体で綿花離れが起きた。
1915年、アトランタ鉛筆工場のユダヤ人監督官レオ・フランクが、その労働者の一人で13歳のメアリー・フェイガンを殺害した容疑で告訴され、その監獄の部屋から連れ去られて、マリエッタの東2マイル (3 km) のフライズジンに連れて行かれた。そこでフランクはリンチに遭った。この事件は一般に法の誤りと受け取られている。

1942年、ベル・エアクラフトがB-29爆撃機を製造するためにマリエッタ工場を開設し、ドビンス陸軍飛行場が設立された。どちらも第二次世界大戦後に閉鎖されたが、朝鮮戦争の時に再開され、飛行場は空軍のものになってドビンス空軍基地と改名され、工場はロッキードとなった。朝鮮戦争からベトナム戦争の間、ロッキード・マリエッタはC-130ハーキュリーズC-5ギャラクシーなど軍用輸送機の主要製造工場だった。コブ郡など冷戦期にカリフォルニア州オレンジ郡からバージニア州ノーフォークハンプトンローズまでの広がった郊外部では、連邦政府の防衛予算と地元経済の繁栄とが直接結びつき、国家安全保障の問題に関する超党派タカ派保守の政治文化と物質的利益の構造ができた〔Matthew Lassiter 'Big Government and Family Values: Political Culture in the Metropolitan Sunbelt' Pg. 90 in 'Sunbelt Rising: The Politics of Place, Space and Region' ed. Michelle Nickerson, Darren Dochuck〕。
1960年代初期にジョージア州憲法の修正によって、州全体に自治のための法ができたとき、アーネスト・W・バーレットが新しい郡政委員会の初代議長になった。1888年に建設された郡庁舎は解体された。
1960年代と1970年代、人種統合によってアフリカ系アメリカ人が多数派となったアトランタ市からホワイト・フライトが加速され、コブ郡は田園地帯から郊外地に変わった。不動産ブームがホワイトカラーの第一世代である田園部白人の南部人やラストベルトの移住者を呼んだ。コブ郡は元人種差別主義者でジョージア州知事(在任1966年-1971年)を務めたレスター・マドックスの故郷である。1975年、コブ郡有権者は、人種統合バスに反対して出馬したジョン・バーチ協会の指導者ラリー・マクドナルドをアメリカ合衆国下院議員に選出した。保守派民主党員のマクドナルドは、ロックフェラーとソビエト連邦が「社会主義による一つの世界政府」を画策し、ウェスタン・ゴールズ財団を共同設立したという嫌疑に調査を要求した。1983年、大韓航空機007便がソ連の制限空域を通過したとして、ソ連戦闘機に撃墜されたとき、マクドナルドがこれに搭乗していて死んだ。

1990年、共和党員のニュート・ギングリッチがコブ郡を中心とする新しい選挙区からアメリカ合衆国下院議員に当選した。1994年、共和党がほぼ50年ぶりに下院を制し、ギングリッチが下院議長になって、コブ郡は全国の注目を浴びた。1993年、郡政委員会はホモセクシャルを糾弾する決議を通し、コミュニティシアターに関する苦情が出ると、芸術に関わる予算を削減した。ゲイの権利に関する組織から抗議の声が上がった後、1996年のアトランタオリンピック組織がコブ郡から行事を引き上げた。
1990年代と2000年代、コブ郡の人口構成が変化した。アトランタの中産階級化によってホワイトフライトの時代を逆行させ、中産階級のアフリカ系アメリカ人、ロシア系、ボスニア系、中国系、インド系、ブラジル系、メキシコ系、中央アメリカ系の移民がコブ郡南部や西部の旧郊外部に移住した。2010年、アフリカ系アメリカ人民主党員デイビッド・スコットがこれら郊外部の多くを含むジョージア州第13選挙区からアメリカ合衆国下院議員に当選した。地方警察官が移民法を強制できる移民国籍法セクション287(g)に参加したことでは、コブ郡が州内初の郡になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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